1528年摂津江口の戦で三好軍に敗れた湯川直光は山科本願寺の証如の助力で小松原館に帰還する事ができた。その恩を返すため1540年に建てられた吉原坊舎が日高別院の前身である。紀州の戦国武将である湯川直光は信仰心が厚いことで知られ、寺社仏閣の建築、改修造営を行った。湯川氏は特に八幡神社に崇敬厚く、紀南の八幡神社に神護寺や別当寺をおいてきた。時に北部の宗教勢力同士の争いの調停に自ら赴くこともあったという...
西御坊駅から徒歩5分ほど。 1540年創建の浄土真宗本願寺派の寺院。1595年に現在地に移転し「日高坊舎」を建立。近隣住民からは「御坊様」と呼ばれたことが現在の地名「御坊」の由来となっている。本尊は阿弥陀如来。本堂は1825年の再建で木造瓦葺き。境内には樹齢400年の銀杏の木が聳える。だだっ広い広場のような境内であるが、幼稚園が併設されているので園児の遊び場になっているのかもしれない。
16世紀前半に戦に敗れた地元の豪族が山科本願寺に助けられ戻ることが出来ました。その恩に報いるため一宇を建立したのが始まりだそうです。訪問時は、山門が閉まっていて入れませんでした。
本願寺のことを御坊さんと言う。その名がそのまま市の名前になった御坊市の象徴とも言うべき本願寺日高別院は、旧市街の中にひっそりと佇む古刹である。境内の真ん中には本願寺のシンボルとも言うべき銀杏の木が鎮座ましましています。
駐車場から境内に入るときの門に、子供を守るため門を開けたら閉めしてくださいと案内され、しかも、その隣には水遊び程度のプールがありました。何故かなと思いましたが、境内に幼稚園があるからでした。
Wow ! Sengoku Busho laid the foundation of this temple .
1528年摂津江口の戦で三好軍に敗れた湯川直光は山科本願寺の証如の助力で小松原館に帰還する事ができた。その恩を返すため1540年に建てられた吉原坊舎が日高別院の前身である。紀州の戦国武将である湯川直光は信仰心が厚いことで知られ、寺社仏閣の建築、改修造営を行った。湯川氏は特に八幡神社に崇敬厚く、紀南の八幡神社に神護寺や別当寺をおいてきた。時に北部の宗教勢力同士の争いの調停に自ら赴くこともあったという...
地名「御坊」の由来となった寺院
西御坊駅から徒歩5分ほど。 1540年創建の浄土真宗本願寺派の寺院。1595年に現在地に移転し「日高坊舎」を建立。近隣住民からは「御坊様」と呼ばれたことが現在の地名「御坊」の由来となっている。本尊は阿弥陀如来。本堂は1825年の再建で木造瓦葺き。境内には樹齢400年の銀杏の木が聳える。だだっ広い広場のような境内であるが、幼稚園が併設されているので園児の遊び場になっているのかもしれない。
山門が閉まっていました
16世紀前半に戦に敗れた地元の豪族が山科本願寺に助けられ戻ることが出来ました。その恩に報いるため一宇を建立したのが始まりだそうです。訪問時は、山門が閉まっていて入れませんでした。
銀杏の大木
本願寺のことを御坊さんと言う。その名がそのまま市の名前になった御坊市の象徴とも言うべき本願寺日高別院は、旧市街の中にひっそりと佇む古刹である。境内の真ん中には本願寺のシンボルとも言うべき銀杏の木が鎮座ましましています。
幼稚園が併設
駐車場から境内に入るときの門に、子供を守るため門を開けたら閉めしてくださいと案内され、しかも、その隣には水遊び程度のプールがありました。何故かなと思いましたが、境内に幼稚園があるからでした。